{この内容は2010年度版です}
フェドカップ(フェド杯)は、俗に「デ杯の女子版」といわれ、国際テニス連盟(ITF)が主催する女子の国及び地域別対抗戦である。
フェドカップの前身、フェデレーションカップが創設されたのが1963年。このイベント構想を最初に提唱したのは、ヘイゼル・ホチキス・ワイトマンという米国の女子チャンピオンで、1919年のことだった。この年、全米選手権(全米オープンの前身)に8年ぶり4度目の優勝を遂げたワイトマン夫人は、国際ローンテニス連盟(ILTF=現在の国際テニス連盟)に、「女子にもデビスカップのような対抗戦を」とアピール。しかし、当時の女子テニスは世界的に見て普及度も低く、条件が熟していないという理由で、ILTFは、この要請を却下した。ILTFの回答に、ワイトマン夫人は「女子でも立派な選手権競技ができる」ことを立証しようと、自らカップを寄贈し、当時の女子2大強国である英米対抗戦を組織した。これがワイトマンカップで、1923年から1989年まで続けられた。
1962年になって、米国人と結婚した英国の元ワイトマンカップ代表選手メアリー・ハードウィック・ヘア夫人が、ILTFに出した起案書が年次総会で満場一致で賛成となり、フェデレーションカップが実現した。1963年はILTFの創立50周年に当たり、同連盟は記念行事を模索していたところだった。ヘア夫人の提案は、個人トーナメント同様、1カ所に参加国・地域代表を集め、1週間の勝ち抜きで行うというもので、各対戦は、シングルス2、ダブルス1の3試合制。この方式は1994年まで続けられた。ちなみに、フェデレーションは国際テニス連盟の「連盟」から名付けられた。
第1回大会は、1963年6月、英国ロンドンのクイーンズ・クラブで行われ、米国がオーストラリアを破って、初代の女王国となった。参加は16カ国と少なかったので、会期はわずか4日間。その後、参加国が増えるに従って、本戦32カ国プラス予選という方式に変更。しかし、このまま参加国が増えれば、大会の運営が難しくなることに加え、女子テニスの普及やレベルアップに役立つイベントにすることの2点をふまえ、1995年からはフォーマットを一新し、デビスカップと同様に、ワールドグループ制を採用した。それと同時に、大会名称そのものも「新聞・雑誌の見出しやロゴマークとしては長すぎて使うのが不便」というメディアの声に応えて短縮され、「フェドカップ」が正式名称となった。
2004年はワールドグループ16カ国の下に、デビスカップ同様に世界を3つの地域に分けたゾーン(アジア・オセアニア、欧州・アフリカ、米国)があり、これらの3つのゾーンは、それぞれがレベルに応じて、欧州・アフリカが1(1部)、2(2部)、3(3部)、ほかの2地域のゾーンは、1(1部)、2(2部)のグループに分けられ、ワールドグループも入れて、91カ国が出場した。2005年以降は、ワールドグループを1、2の2部制とし、16カ国をそれぞれ2つに分け、8カ国ずつで戦われている。
日本は1964年の第2回大会に初参加、以後1966~1969年を除いて毎年、参加している。1994年、フェデレーションカップとして開催された最後の大会で、初めてベスト8に進出。1995年のフェドカップでは、最高位のワールドグループに所属した。1996年大会の日本は、1回戦でドイツと対戦し、3-2でグラフ率いるドイツを破り、準決勝に進出。米国に敗れたが、日本女子テニス史に栄光を刻み込んだ。2002年はアジア・オセアニアゾーン・グループ1を勝ち抜き、コロンビアとのワールドグループ入れ替え戦を戦うはずだったが、治安上の理由で初の棄権を余儀なくされた。しかし、2003年にアジア・オセアニアゾーン・グループ1を勝ち抜き、入れ替え戦ではスウェーデンを下し、2004年のワールドグループ復帰を果たした。2006年はワールドグループ2でスイスに勝ち、プレーオフでもオーストリアを破り、2007年ワールドグループ1への復帰を決めた。しかし、2008年は再びワールドグループ2に転落し、2009年,ワールドグループ2、1回戦でセルビアに敗れ、プレーオフはポーランドに2-3で破れ、2010年はアジア・オセアニアゾーン・グループ1で戦うことになった。2010年2月、日本はアジア・オセアニアゾーン・グループ1の1次予選を全勝で通過。1位決定戦でも中華台北に2勝1敗で勝利し、ワールドグループⅡとの入れ替え戦に出場する権利を獲得。4月に適地スロベニアで、復帰をかけて対戦する。
日本女子で、シングルスとダブルスを合わせて最も出場試合数が多いのは沢松(現姓吉田)和子の54試合だ。シングルスの30試合出場、そしてシングルス25勝、ダブルス19勝も最多である。シングルス、ダブルス合計の勝ち星44勝は、世界でも有数の記録になる。 日本のフェドカップで最多ゲーム数を記録したのは、1997年ワールドグループ1部1回戦対フランス最終日に、沢松奈生子がN. Tauziatに計54ゲームで敗れた試合だ。この試合は、世界でも最多ゲーム数試合であり、最終セットの17-15の計32ゲームも1セットの最多ゲーム数となっている。また、日本女子の最少ゲーム数試合は、計12ゲームというのが8回ある。その内、敗れたのは1度だけ。最近では、2003年のアジア・オセアニアゾーン・グループ1部で浅越しのぶ、小畑沙織が1度ずつ完封勝ちを収めている。
日本女子の最年少出場は、1988年コンソレーション2回戦対韓国のシングルスでプレーした15歳8カ月13日の沢松(現姓丹羽)奈生子。最年少勝利も同対戦。